昭和44年02月24日 朝の御理解



 御理解第28節   
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 ここの御理解はまあ繰り返し、繰り返し頂いておりますよね。私共の願いが成就すると言うても、この28節に出ておる所のまめで一心に繁盛してよう、元気な心で信心せよと仰る。所謂まめで壮健であるということ。同時にそれが繁盛という事に繋がるおかげを受けるという事が、神様の願いであると同時に又私共の願いであります。それにはここにございます通りの、やはり信心がある。
 愈々身につかなければいけません。これは私、大坪一家の事を申しましても、信心はもう、やはり70年にもなりますでしょうかね。久留米が出けて以来でございますから。善導寺に三井教会におかげを頂きましてからでも、もう60年。そういう長い信心を頂いておりましたけれども、やはり、言うなら病気災難と言うかね、難儀というものは、まあ続いておると。
 困った事っていうのがないって事の中でいつもなっておる。かと言うて、言うならば本当に不思議というようなおかげはもう、次々と頂いておる。ね、また商売の事でもお繰り合わせを願えば、そん時その時にお繰り合わせを頂いて来たけれども、それは、今私申します、いわゆるまめで、ね、いわゆる壮健で繁盛するというおかげには繋がっていなかったという事です。
 私共がそれを感じる、まあ今振り返って考えてみて、それが頂けれるようになったのは、やはり椛目で人が助かるようになってこの方、まあここ20年余りである。ね、ここ20年余りを私はおかげを頂いてここんとこにあります、ね。井戸は聖水になるまで、病気災難は根の切れるまで。この病気災難の根が切れたような気がする、井戸は聖水になって、こんこんと綺麗な水が出ておるというような感じがする。
 かと言うてなら、ここなら、20年あまりの間に、なるほど薬一服飲むというような事ではなく、医者にかからなければならない、しかも十何人の家族を「ようしって?」そう言うことがないと言うても、なら風邪も引かんか、腹が痛い事もなかったかと言うとやっぱあったけれどもね。あったけれども、まあ言やあ、私の場合でも、まあ医者に言わせれば糖尿病という病気を、いわば持っておるし。
 ついこの頃までは何年か、足が立たんといったような、やはり病気でありました、ね。医者に言わせれば病気なのです。そこでね、あの、けれどもまあ、こう振り返ってみて、やはりおかげを頂いてから病気災難の根は切れた。井戸は聖水になったというような感じの、いわば20年間であった。それはやはり、まあ70年にいたしましても、20年の御用を頂いて、50年間という信心のその、基礎があったから。
 この20年間のおかげを頂いておるとは思われない。その証拠には、例えば私共よりも熱心に、なら何十年の信心を続けておる人が沢山あるんですけれども。一時は大変おかげを頂いておっても、それがその、井戸は聖水になるまでのおかげに繋がっていないし、病気災難は根の切れるまでと仰る、根の切れておるとは思われない事実が沢山ある方。それこそですね、この病気災難の根の切れるまでとか。
 井戸は聖水になるまでという、ここのところのおかげですね。例えば病気をしても、災難にあっても、その病気やら災難が、その病気と見える、災難と思われる・・・それがおかげと見えれると言うか、それをおかげと見る。そのおかげを見る信心。そこに、私、井戸は聖水になるまでと言うのが必要になってくる。まあ井戸と言わずに、心は聖水になるまでと、ここを頂いたらいいでしょう。
 同時にここん所ですね。井戸替えをするのに8分9分かえて退屈して止めればとこうある。ここんところがですね、私は今日は朝起き財産朝参り財産。ね、金光様の御信心を頂いておる者はですね、ここんとこがね、しるしいとか難儀というものを感じずに、ここんところが、まず有り難いという事になって来ないとね、災難やら病気やらがやっぱり災難であり、または難儀でありそれはまた病気としか見えんです。
 ところがね、その朝参りとか、朝起きはね、楽しゅうなったり有り難うなったりするおかげを頂いて来たらね、これはもう、絶対ですね、病気災難の根は切れると思うね。朝参りはしるしい、おかげを頂くまでは石に噛り付いてでもと、といったような所をお互い通ります。私共そういう意味合いでなら、なら20年、この方じゃなくて20年以前の場合でも、やはりそれを続けた時代もあった。
 けれどもね、それはいつの場合でも8分目、9分目で止めておるという事である。一つの事が成就するともう止めておる。ね、ある願い事が叶うたら、結局朝参りがしるしかったのであり、「    」なかったんです。その朝、朝起きとか朝参りがね、楽しい所まで辛抱し抜ききってないということ。もう朝参りがこよなく有り難いもの、私はここんところをね、ここんところが私は、ね。その、そこまでを私はあの、8分、9分かえてとこう仰るところに、今日はそういう風に頂いております。
 だんだん有り難かったり、有り難くなかったり。そして有り難くなかったりする事が続くと、そこでもう、例えば朝参りが出来なくなる。もうこれは、もう惜しい事に8分目、9分目で止めた事である。ですから、私は本当にここにあるその、病気災難は根の切れるまで。しかもそれが繁盛するように一心に願えと仰る。さあ、病気災難がなくなって、しかも繁盛する。繁盛のそれに繋がるおかげというものがです、頂ける事が、まあ人間の最高の幸せであろうと思うのですけども。
 そのおかげを頂く為にですね、私共が井戸は聖水になるまでという、自分の心の上に聖水を感じれれる信心。なるほど元気な心で信心せよと仰るが、ここにやはり本気で元気な心での信心が望まれる訳であります。今朝、目覚ましのおかげを頂いたのが、もう15分で用意して、いつもより15分間遅い。まあ慌てて、こちらへ出て参りましたのが、ちょうど4時10分前である。
 なるほどそれは、御祈念に間に合わん事はない。10分間という余裕がある、ね。そのこの辺のところにですね、私、お互い、その一つのゆとりを持たなきゃいけないと思うですね。4時の、これは皆さんの場合ですよ、私の場合。私の4時の御祈念、私の4時の御祈念をですね、どうしてもやっぱ30分というゆとりを持たんとね、有り難いものになって来ない。もちろんそこには、ちょっと、ね。力みと申しますか、やはり力みもいりますけれども、その力みという事が有り難い。
 最近これは私の実感ですけれども、その30分が何とも言えん有り難いものである。4時前30分と言うのが、私にとっては非常に有り難いものである。それも、ならここ一年あまりである。言うなら、朝起き、朝参り的な、それがいよいよ、こう有り難いものになって来たと言うか。だから、私はこれがもし私に出来なくなったらね、私また水が濁って来るのじゃないかと思う。病気を病気、災難は災難と感じるようになるだろうと、こう思うです。
 ところがおかげを頂いて、その事が有り難い。ちょっと気張れば、ちょっと力めばそれが出来るほどしに、だんだんおかげを頂いてきた。「         」ようにそれは進めよるし、その事が進展して行きゃ分からない。そして、ここに思う事は、いよいよ病気災難は根の切れる、病気災難の根の切れておる事の有り難さと言うか。もう絶対繁盛に繋がって行くというおかげを「いとおす?」と言うかね。信心させてもらえれる気持がいよいよ強うなるばっかり。
 今日は私皆さんに金光様の信心を頂いておっても、そのそげな真似は出けんと私自身が言うたり思うたりしておった事が、段々それを辛抱し抜かせて頂いておる内に、8分9分かえるのではなくて、それを頂き抜かせて頂いて、初めて今こういう事が皆さんにお話出けるんです。ね、だんだん自分の物になって来たから、皆さんに言えるのです。ですからもう、何が何でも金光様の御信心をするなら一つ早起き朝参り、ね。
 その修行がですね、一つこれはおかげを頂く為でも良いけれども、それを金光教の信心の修行と思うてです、それを苦労と思わんようになるまで辛抱し抜いたら、もう貴方の日々の生活の中にですね、難儀という事がなくなるだろう、災難がなくなるだろう。いわゆる病気災難は根の切れるまで、根の切れるまでのおかげになる訳。例えば今まで、はあ眠たいな、この寒いのにしるしいな、と思っておったのが、眠たいを感じん、しるしい、そういう例えばきつい修行をです、修行とも思わんようになるという事が、ね、今日私はもう病気災難とは縁が切れれるおかげになると。
 けれどもやはり神様の願いで、私共の願いはやはりここにあるのです。ね、本当に病気災難は根の切れるまで。しかも繁盛するようにと言う、その繁盛一途を辿るであろう事を確信出けれるおかげを頂く為にですね、これは皆さん、どうでもここんところにね、本気で取り組まなければいけない。という事はまたこういう事も言えますよ。それは病気でありましても、災難に遭いましてもですね。
 例えば朝参り、朝起きをするという事は中心。もう一時間寝たら良かろうと、こう思うような、そういう心がです。例えば朝、今日の私の実感ですよね。4時の御祈念ですから10分前に、もう控えに出て来とりゃ、まあだ10分間はあるんだから良いようなもんだけれども、もうそれではいけんのです、私の場合。やっぱりもう15分間、もういわゆる30分前にちゃんと用意が出けておらないとです、それだけのゆとりがないと、いわゆる聖水になったという気がせん。
 そこから私の、病気災難の根がいよいよ切れて行くのであり、井戸は聖水にいよいよなって行くのである。ですから、例えばそういう中に、よしなら病気があり、災難があると致しましょうか。ところがね、心が聖水になって行くのですから、その病気が、災難が、もう病気とも災難とも感じらないのである、ね。それは私共の、ならこの20年間という、その間、長い間の中に、ならこれは私の上においても、まあ普通から言うなら足がなえてしもうて足が立たんと言うのですから、災難なやはり難儀です、病気なんです言うなら。けれども私は、これは皆さんが実際に見て来ておられたように。
 私が一つも、あのそれを病気とも災難とも思っていないという事、難儀と思っていないという事。時々はむしろそれが楽しいようにあるという事。ね、それが足が立たんようになってしもうた、なえてしもうた。おかげで私はもう御結界にいよいよ専念する事が出来ると思うたら、ここへ座りきりで座っておく事が出来ると思うたら有り難かったんですけんね、本当にこれは嘘じゃないです。
 そしてこれが痛い痒い訳じゃないもんですから、ならここを、ならマッサージしてもらうでしょ、揉んでもらう。もうそん時の気持ちの良さと言うのは、これは本当こげん一遍なえてみなければ分からんちいうごたる気持ち。一つも不自由がない。なるほど人に迷惑をかけん訳じゃないですけれども、なら迷惑を蒙って下さる方達がです、それを迷惑と感じて下さらないように私には感じられた。
 先生起こしてあげましょう、さあ便所に連れて行ってあげましょう。御本部参拝する時には、あの高い石段をおんぶして行ってあげましょうという人が、先生ばおぶらにゃならんちゃ、もうほんにこれは難儀な事じゃある。先生をおいて自己便所まで連れてかにゃんちゃ、本当にもうわきのもんが「じゅつなかって?」、私は一つも感じなかったんですよ。もう皆さんがもう喜々として、喜々としてばかりですけれどもね。
 もう本当に御用として、喜んであの、頂いて行って下さったように思うんです。ね、ですからその事をひとつ私は難儀とも病気とも感じてないのです。神様のご都合に、これはもう絶対です、神様のご都合です、ね。それをおかげと見ておる。なら、そういう風に見れるようにおかげを頂いたのはね、私のやはり、朝参り的信心から。その朝参り的信心が、まあ当時はです、5時の御祈念でしたけれども。
 その5時の御祈念がしるしいとも、難儀な事とも感じんで済むようになって、これもやっぱし、厳密に言うとしるしいもありゃ、やっぱり苦しくもあったけども、それをやり抜かせて頂くという、そこにそれを難儀で感じん、それを有り難い事として頂かせてもらうおかげを頂いて来た事と、その難儀を難儀と感じんで済むようになった事がですね、いつも平行しておるという事から思うてね、
 今日はここんところに焦点を置いて皆さんに聞いて頂いてる訳なんです。例えばなら今日私が朝参り、朝参りという事を申しますけれども、事実の上に朝参りが出来ないという人も沢山あります。ならここに例えば千人なら千人の信者がおるのが、千人の者みんなが朝参りをしておる訳ではありません。それでもやはりおかげを皆さん受けておりますけれどもです。それがしかし段々千人おるなら千人が出来るようなおかげを頂かなけりゃいけない、遠い近いじゃない。もうそれは私の日常生活の一部なんだ。
 それだけの時間を取ったから生活が窮屈になる。それだけの事が出来るというか、それだけの修行がさせて頂く事がです、例えば私共の幸せという事の上には一つもマイナスにはならないね、例えばならここに久富がおられますけれど、久富さんが一日の内に3時間なら3時間という時間を信心の為に使われるとするならです、3時間使われたからと言うてね、決して貴方のしとりなさる田やら畑やらが荒れるような事はない。
 してみると、3時間という有り難い時間を費やす事は、中村さんじゃないけれども、お願いお参りのし儲けでありお供えのし儲けという事になる。そのし儲けである、それが徳なんです。それが徳になる、それがあの世に持っていけるのだ。ね、そこんところに私は、例えばひとつ不思議、そういう不思議を一つ本当に体験して行かにゃいけん。10時間働いておる者が3時間、信心の時間に使ったら、ね、
 ころっと仕事の方が3時間マイナスになっておるとういような信心なら、それはほんなもんじゃない、ね。あれだけ金光様、金光様と言うてお供えをしたりお参りをしたりしござるけれども、例えばならこのお店であるとするならば、そちらの店の方が信心のなか事よりも、いわば繁盛して行きよるというような、おかげを一つ現して行かなきゃいけん。ね、その過程においては、やはりスッキリしませんから。
 それはやはりマイナスであり、損になっておるようでありますけれども、そこが7部目8分目で止めたんじゃやはり参りゃお金がいる、参るりゃ時間がかかるという事になる。そこんところを辛抱し抜かせて頂いてね7部目、8分目で止めるような事なしに、井戸は聖水になるまで自分の心が聖水になるまでという辛抱をさせて頂きよるとですね。信心が自分の生活の一部に溶け込んでしまうとです、とても今度は馬鹿らしゅうして馬鹿らしゅうして、自分の仕事だけに打ち込んでおるなんて。
 こげな馬鹿な話はなかごたっと。そこには災難が必ずあるそこには必ず病気災難が根の切れてない証拠をそこに見るのです。はあ、これはこがしこ、まあ例えば分かりやすく言うなら、本当に一生懸命朝参りをさせて頂きよる時には、病院代いっちょなかったけれども、朝参りを止めたら、ね、お初穂がの事っちゃない、病院代がある。これはまあ、病院だけの事じゃないけれどもね。
 何にもならない、それこそ溝の中に金を捨てるような事に使うてしもうておった、使われておった、取り上げられておったという事になるのです。ね、そこの体験がだんだん出来て参りますと、とにかく信心に打ち込まにゃおられん、しかもその打ち込む事が難儀、打ち込む事が修行、ね。その打ち込むという事がです、ね、例えば言うならば、病気災難で苦しむより、朝参りで苦しんだ方が良いという事になる。
 しかもその、朝参りで苦しむという所を本気で、7部目、8分目で止める事なしに、本気で続けておるとです、それが苦しい事ではなくて、有り難いという事になるということ。そして、こういう有り難い事をどうして気がつかなかったであろうかと思うようになる。ね、本当にこれは私が、今日の実感なんですね。どうしてこの朝の御祈念を出けんもののように思うておっただろうかと、こう思う。ね、
 それが有り難く出来るように、いよいよ病気災難の根は切れて行きます。いよいよ私の心は聖水になるまでと思われるほどに、私の心は有り難い。ね、聖水になるまでというのはどういう事かと言うと、自分の心の中に、ね、いつも神様が喜んで頂くような事を思い続けておるということ。ね、それが貴方の心が聖水になって行きよる事だ。真の道の心得る中にね、真の道におりながら、真の道を踏まぬ事と。
 真の道におりながら、真の道をふまぬこと。どれだけ沢山のお道の信奉者がおるか分からんけれども、ね、沢山な信奉者が真の道に縁を頂きながら、その真の道を踏まないということ。もう、いわばお道の信者に「もとる?」訳である。ね、せっかく有り難い真の道に縁を頂きながら真の道を踏まないという事は、いわゆるお道の信者としての、それにもとる事になる。
 そんなら真の道とはどういう事かと言うと、7部目、8分目で信心を止める。まあ例えて今日はここんところを朝参りと、こう申しますね。朝参りの有り難さも分かって来たじゅつなさも感ずるけれども、ね、その、それが8分、9分で止めるような事なしにそこを辛抱し続かれて行く時にです、それが有り難い事であった、こういう有り難い事がどうして早うからなされじゃったじゃろうかと、自分で思うようになる。
 病気災難の根が切えて行きよる事実を体験して行く事が出来る。ね。そして私の心の中には、いよいよ聖水になっておる、いわば込めども込めどもいつまで続くやら分からん有り難い心が湧いてくる。ね、井戸は聖水になるまで。その井戸の性質、井戸は聖水という、これはもう汲めども汲めども綺麗な水が出くるように、私の心からもう限りないほどに有り難いものが出てくる。ね、
 井戸が聖水になるという事は、自分の心が聖水になるという事だ。なら聖水になるという事はどういう事かと言うと、私がいつも神様がお喜び頂けれる様な事を思い続けておれれるという事なんです。神様が喜んで下さる事をいつもこの中に思い続けておる。しかもその思いという事はね切れるという事がない。思えば思うほどそれが段々、段々ね。広い、深い大きな意味合いにおいての思いが心の中に湧いて来る様になる。ね、
 それに、ね、それに対してですね、それに対してだから愈々深い、広い有り難いもののおかげがこれに伴うてくる。ね、いわゆる先ずまめで先ず健康で。そして繁盛するおかげに繋がる道を確信出ける。ね、もう私は大変難しい事だと思うんですよ皆さん、やっぱり、ね。けれどもね、本当に朝起きがこんなにも有り難い。しかもそこにはですね、一日の内のその朝参りが、朝起きがですね、決してマイナスではない、ね。
 という事をですね、本当に体験させてもろうての生活、信心生活。ね、そこにはね、もういよいよ私は、病気災難は根の切れるまで、井戸は聖水になるまでという事であり、それがいよいよ、そういう心で、ね、皆の壮健を願い、繁盛を願うところにです・・・「音声不良」・・・を願い、繁盛を願うところにです、ね、その願いがそのままに聞き届けられるという信念に満ちた、確信に満ちた生活が出ける。
 よしそこに、人は災難と言うかも知れないけれども、難儀と言うかも知れないけれども、その災難を一つも災難とは思うていない、難儀とは思うていない。いやむしろそれを楽しゅう受けておるような姿さえ、その中に感じれれるようになる。そこに初めて病気災難は根が切れたという事が言える。そうですね。どういう風に家の上に、今が雨じゃろうか、風じゃろうかといったような事が起こってでもですよ。
 それがその雨風が楽しゅうなって来るんですから。もうそこには病気災難の根は切れたという事になるです。またそういう心の状態の上にはです、本当にいわば勿体無いほどの平穏無事が約束される。またはそれがいよいよ、もういよいよ繁盛する事を、疑いなしという、その繁盛の確信というものが持てる。なるほど、これならば一家を上げての徳が家についてくる、身について来る。
 これがあの世にもまで持っていけれる物だと言う様な有り難い事にまで進展してくる。天地の親神様のね氏子に対する願いは、私はこれだと思うんですけれどね。ですからならここ皆さんの場合ですよ、ね、今日私が申しました事が大変難しく聞こえたり、無理のように聞こえたりするなら、そのもう皆さんのその程度程度に応じてです。例えばなら私が、ここに20年の信心をこうやっておかげ頂いておるけども、始めから私がなら4時の御祈念が楽しかった訳じゃない、ようやく「一年間?」私は、ね。
 しかもその御祈念の4時の御祈念に出るのが30分間はゆとりがなからなければ。いやその30分間こそが私のお芝居で言うなら「さんばそ」。ね、そのさんばそが自分でも心行くまでです、自分の心の中に踊り抜かなければ、その日一日が何とはなしに本当のおかげにならない感じ。ね、だから少しはしるしかっても眠かっても少しはそこに、ね、気張らんならんですけども、その気張らせて頂く事が言うならば修行。
 だからそういう修行が本当に高度なものにですね、段々なっていけば行くほどに信心が、信心がじゃないおかげがね、高度なものになって行く訳なんですよ。どうぞ一つ井戸は聖水になるまでのおかげをね、まず皆さんの心の中からそれを感じられるような、一つ日々それもそれには、例えば朝参りなら朝参りという修行が伴うてから、私の心の中にはいつもこんこんと湧いてくる泉のように。
 神様がお喜び頂けれる事だけが願われる祈れれるね。そこには病気もなからなければ災難もない。本当に信心生活させて頂く者の幸せと言うかね。愈々その有り難さというものを身に付けさせて頂きながら、それぞれの御用に立ち触らせて頂く。ここん所一つどうでも分かって頂きたい。十時間働かなければね自分方の家は立ち行かんという思い込みを持っておった者がね七時間でもそれ以上に立ち行く道があるという事。
 そげな神様事にばっかりお金ば使いよんなら。自分方の経済は立ち行かんと思い込んでおった者がです、それこそ中村さんじゃないけれども、お参りのし儲け、お供えのし儲けという実感がね、しかもそれが、愈々大きく強くね、なされそれが思い込まれていく信心修行の為にもです、どうでも一つ朝起き財産、朝参り財産が出来れるおかげを一つ頂いて頂きたいと、こう思います。
 今日は御理解28節をいつもとは違った意味で、今頂いたんですね。本当に私共の前から病気災難の根の切れてしまう。それは人が見れば病気に見える、災難に見えるかも知らんけれどもです、私にとっては、それは神様の御都合であり、またはそれはそれをおかげと見る。むしろその雨も風も楽しゅう見える。そういう境地が開けてくる、そういう心が開けてくる。それが楽しい。
 そこからこんこんと湧いてくる聖水のように、限りない神様のお喜び頂けれる心が、もう限りなく使われる、限りなく広がっていく。しかもそれが限りなく広がって行くのですから、限りなくおかげのもの、おかげが、これに伴うてくる。しかもそれがそのまま、あの世にも持って行けると言うようなね、確信。今日の御理解は、まあ理想とかね、夢のような事ばかりを言うと思わずにね。
 やっぱそれに一歩ずつでも皆さんが近づく精進こそがね、私は信心修行である、本当の意味での信心修行であると思うのです。ここんところが、神様の願っておられるおかげであり、本当は、私共の願いもそこにあるけれども、願うからには井戸は聖水になるまでと言う信心。ね、朝参り財産が出来れるような修行がですね、出来て来なければ行けないという風に思います。まあ出来ないと思うのです。ね、本当一つ。
 神様に喜んで頂けれる信心、神様に喜んで頂けれるおかげという事を、もう、まああらゆる場合にそういう言葉を使いますけれども、本当に神様に喜んで頂く信心とは、そういう信心を目指すこと、ね。本当に神様に喜んで頂くおかげを頂くという事がです、ね。そういう先に生まれてくるおかげを神様の喜んで下さるおかげと、ね。そして私が大坪一家の上にです、ね。ここ20年間という信心を振り返ってみて、または70年間という私の信心を振り返ってみてです。
 はあ、ここの時分から井戸は聖水になるまでというおかげを頂いて来たんだなあ、ということを今日は強く実感、感じますのです。ね、ほれで、まあ言うならば、そういう一つのおかげの見本でもある訳でございますから。そこには、修行を修行と思わんで、その修行が当たり前の事になり、当たり前の事だけではない、それが有り難い事になり、それが15分でもかげたら、もう何と言うんですかね。
 それを取り戻す為に一生懸命になれれるという信心がね、現在ここに育って行きよります。これはまだ限りなく、どういう風に育っていくか分かりませんけれどもですね。そういうおかげを皆さん目指して、それも皆さんの信心の段階においてです。「いっぷん?」にここになれという事じゃないですけども、どうでもそこんところのおかげの頂けれる、一つのきっかけをね、頂かせてもろうて、おかげを頂かにゃならんと思います、
   どうぞ。